このようなアドバイスを聞くと、なんとなく善さそうな印象を受けるかも知れません。
特に年少者の方に対しては、教育的な側面からこのような話がされるかも知れません。
ですが、このようなロジックは時として全くの逆効果となりかねません。

今回の問題提起は、多文化社会が進展する今後の日本においてこそ改めて問い直すべき課題です。
甲の薬は乙の毒の意味とは:熊本人と馬刺しとイギリス人
今回の問題を考えるにあたって注目すべきは、「甲の薬は乙の毒」という言葉です。
「甲の薬は乙の毒」とは、同じものでも人によっては薬にも毒にもなるという意味です。(※甲・乙というのは、Aさん・Bさんと同じような意味です)

この言葉で思い出すのは、熊本に赴任した知人の話です。
ある日、知人の職場にイギリスから視察が訪れることになりました。
普段は国内向けの仕事がメインで外国人の接待には慣れていませんでしたが、その知人を中心に最大限のおもてなしをしようと考えました。
そこで挙がったのが「熊本の馬刺しの名店に案内しよう」という案で、ほぼ全会一致で即決したそうです。
私は馬刺しに興味がなかったので具体的な店名などは覚えていませんが、彼らからすると「誰でも舌鼓を打つような名店」だったそうです。
そして実際のところ、『国内向けの』接待においては軒並み好評だったようです。
※なお、馬刺しは熊本名物です。
さて、いよいよイギリス人技術者が熊本にやってきたため、例の馬刺しの名店に案内しました。
しかし、そのイギリス人はそれまでは朗らかな印象だったにもかかわらず、店についての説明を受けた途端に激怒しました。
実のところ、イギリスでは一般的に馬肉を食することはタブー視されているそうです。
上の発言のように、それは「食習慣が無い」というレベルの話ではなく、心理的に強烈な嫌悪感を催すと言った性質のようです。日本で言えばペットの感覚でしょうか。
この件について注目すべきは、知人側は良かれと思って最善の方法を取っていた「つもり」だったという点です。
つまり、「自分がされて嬉しい接待が相手にとって最悪の行為だった」ということです。

こうして、同国人の接待には薬だった馬刺しの名店がイギリス人にとっての毒にもなってしまうということです。
※なお、同国人だからといって喜ぶとも限りません。かくいう私自身も食べませんし、人によってはこのイギリス人のように逆鱗に触れるかも知れません。
大切なのは相互コミュニケーション、価値観の擦り合せ
こうした状況を出来る限り減らすためのカギとなるのが、相互コミュニケーションです。
先ほどの馬刺しの例で言えば、食事について予め相手方に尋ねておくといったことが大切です。
食文化の例で別のものを挙げると、ヒンドゥー教徒であれば牛肉、ムスリムであれば豚肉を忌避するのが一般的です。これは単なる好き嫌いの次元の話とは違い、個々人の信条に深く関わる部分です。
あるいは、食物アレルギーであれば、症状の重さによっては命に関わるリスクもあります。
こうした個々の違いというものは、実際に相手とコミュニケーションして擦り合わせていくことが必要になります。
一時期、「(場の)空気を読め」という言葉が巷で流行語にされた流行しました。
ですが、イギリス人と接したことすらない日本人がどれだけ空気を読んだところでイギリス人の感覚など分かりません。(客観的知識としてある程度は調べられても)
結局の所、空気を読むという行為はどこまで言っても主観であり、最初から同じ価値観を持つ相手との間にしか通用しない手段です。
対して、現代日本では外国人移住者が増加の一途を辿っています。もはや現実問題として空気を読めなどと言っていられません。
もちろん、どれほど密にコミュニケーションを図ったところで語弊が生じることも多々あるでしょう。
ですが、だからこそ相互コミュニケーションでなるべく齟齬を減らしていくことが大切です。
これは、分からないことを相手に訊くという点はもちろん、訊かれた側も明確に意思表示することが求められます。
それこそが「相互」という意味です。

だからこそ当サイトで連載してきた論理的思考力が重要性を更に増していきます。
「自分がされて嫌なことは他人にもしない」にも注意

でも、逆に「自分がされて嫌と感じることは人にもやらない」ってのは良いですよね?

いえ、それはそれで要注意なロジックです。
確かに、誰にとっても嫌な行為でしかないようなことであれば、他人にやらないに越したことはありません。
例えば、児童虐待の連鎖を止めるために「自分がされた理不尽な虐待を子にしない」という考え方は非常に重大です。
ですが、そうした明らかに悪い例でなければ、個々の価値観によってまた違ってきます。(実際はその児童虐待ですら肯定する人も居るでしょう)

例えば、グループでワイワイ歓談してる時に一人だけスマホをいじっている人が居たらどうしますか?

そんなの、どうもしないね。話の輪に入る気がないのに話しかけられるなんて嫌だろう。

えっ?なにか話題を振らないの?みんなワイワイしてるのに一人だけ輪から外れる状況なんて嫌でしょ。

……えっ?

「本当に輪に入る気がない」のか、「本当は輪に入りたいけどシャイで言い出せない」のかは人によりけりです。
あるいは、誰かが仕事上で改善すべき短所を抱えていたとします。
その際、当の本人にとっては「問題点をそのまま放置されてしまうのが嫌」なのか、あるいは「直接的に問題点を指摘されるのは嫌」なのかは人それぞれです。
ここで、「仕事は効率化が第一だから全部指摘した方がお互いのため」というロジックで片っ端から指摘してしまうと、人によっては「人格否定された」と感じてしまい仕事全体に対して萎縮してしまうかも知れません。
一方で、遠回しに問題点を仄めかそうとしたところで、相手が気付くかどうかは運次第です。もし問題点の改善につながらなければ、結果的には本人も会社も顧客も全員にとって不利益です。

私は「可能な限り言った方が得」派ですが、その際にも「ちょっと改善点に気付いたけど良いかな」とワンクッション置きます。

受け容れてもらうための工夫も必要ってことですね。
結局の所、意思疎通を通じて「当人にとって毒になるか薬になるか」を個別具体的に判断することが大切になってきます。
まとめ
「自分がされて嬉しいこと・嫌なこと」という判断基準は、単なる個人的・主観的な価値観に過ぎません。
こうした価値基準から他人に働きかけると、往々にして独善的な行動に繋がりかねません。
当記事における本当の核心部分は、「相手がされて嬉しいことは積極的にやる」、「相手がされて嫌なことはやらない」という相手に寄り添った行動指針です。
そして、相手にとって「適切な薬」が何かを判断するためには、自分個人の尺度(ものさし)だけでは足りません。
だからこそ「お互いに」コミュニケーションを図り齟齬をなるべく減らしていくことが大切です。
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